

今日は何の日 7月3日波の日(7月3日 記念日)東京都渋谷区猿楽町に本社を置く株式会社サイバードが制定。
日付は「な(7)み(3)」(波)と読む語呂合わせから。
海やサーフィンに対してもっと関心を持ってもらうことが目的。
記念日は一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。
同社は、海に向き合うスポーツ「サーフィン」の魅力を知ることができるサーフィン&波情報サイト「なみある?」を運営しているモバイルコンテンツ企業である。
1999年(平成11年)、NTTドコモの携帯電話サービス「iモード」の開始とともに日本初のモバイル波情報サイトとして「なみある?」が誕生した。
「なみある?」は、現在も多くのサーファーに支持される老舗サイトである。

( ノ゚Д゚)おはようございます、昨日は豪雨からの晴天・真夏日で、夏場を迎える此れからのスタミナが、やや心配です。






今日の気になる話題は此方です。さようならオリンパス、夢をありがとう
カメラ事業撤退、歴代製品を振り返るNobuyoshi Kodera 2020年06月29日, 午後 03:40 in olympus
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Engadget Japan
2020年6月25日、マイクロフォーサーズで知られるオリンパスが、カメラ事業から撤退、投資ファンドへ売却すると報じられました。
現在のオリンパスはほぼ医療機器メーカーなわけですが、それでも同社80年以上あるカメラの歴史に幕が引かれるとは、2018年にデジカメ事業から撤退したカシオに続いての衝撃です。
ここではそんなオリンパスの歴代名機を早足で振り返りつつ、撤退に至った背景などを考えていきたいと思います。
庶民に寄り添ったOlympus Penカメラメーカーとしてのオリンパスの歴史は、1936年の蛇腹カメラ「セミオリンパスI型」に始まりますが、世の中にオリンパスの名を知らしめたのは、1959年から発売され、長くシリーズ化したハーフサイズカメラ、「OLYMPUS PEN」でしょう。

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PENシリーズの一台、1963年発売の「OLYMPUS PEN EES-2」
ハーフサイズとは、通常の35mmフィルムの半分を使って撮影する方式で、24枚撮りのフィルムなら48枚撮れたわけです。
まだ庶民にとってカメラもフィルムも贅沢品だった時代、低価格でコスパも良いハーフカメラは爆発的ヒット商品となりました。
フィルムを半分しか使わない関係で、標準で縦構図だったのですが、人物のスナップには向いてました。
筆者の子供の頃の写真は、すべてOLYMPUS PENで撮影されています。
そんなOLYMPUS PENの大成功を受けて、ハーフカメラでレンズ交換できないかと開発されたのが、OLYMPUS PEN Fでした。
今でいうところのミラーレスカメラの発明に匹敵する商品ですが、すでにこれが1963年、筆者が生まれた年に発売されたのが驚きです。

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1963年発売のOLYMPUS PEN F
ハーフサイズブームは1960年代ずっと続きますが、70年代に入るとフルサイズカメラが主力になってきます。
そんな中登場したのが、「OM-1」でした。
当時の一眼レフの中ではダントツに背が低く、凝縮したフォルムは今見ても十分カッコイイカメラです。
高級機がOM一桁、大衆機がOM二桁という流れで、フィルム時代を生き抜いたシリーズです。

背が低くスマートなOLYMPUS OM-1
そんなOMシリーズ都へ移行して登場したのが、フルサイズコンパクトカメラ「XA」でした。
今でこそコンパクトカメラは珍しくありませんが、この小ささで距離計を内蔵し、マニュアル撮影も可能という、プロもサブカメラとして愛用した名機です。

コンパクトなのにメカメカしい「XA」
このあたりからそろそろ何が言いたいかお分かりかと思いますが、オリンパスといえば、当時の常識ではあり得ないレベルの小型化を実現してみせるカメラメーカーだったのです。
またデザインにも一癖二癖あるメーカーでした。
国内外で限定2万台のみ製造された「O-Product」は、レトロなのに新しいという絶妙なバランスで、今でもハートを打ち抜かれる方も多いと思います。

今でも十分通用するデザイン、OLYMPUS O-Product
コンデジで時代を席捲するも…オリンパスは、デジタルカメラ時代への先陣を切ったメーカーでもありました。
1996年という早いタイミングで「C-800L」ほか2モデルをCAMEDIAシリーズとして展開、画質面においてさすがカメラメーカーと言わしめたカメラでした。
その後CAMEDIAシリーズも順調にシリーズを拡張していったわけですが、いわゆるネオ一眼クラスの大型機も、すべてCAMEDIAシリーズで展開していました。
加えて35mmフィルムのコンパクト機 「μ(ミュー)」シリーズもデジタル化していったため、コンデジ分野で2つのブランドが自社内で競合する事となり、2000年前半は消費者側も次第にわけがわからなくなっていった時代でした。
ですがこの時は、「映像のデジタル化」に沸いた時代でもありました。
全員手探りながらも、熱気溢れる時代だったと言えるでしょう。
そんな中、2003年に初めてフォーサーズ規格の「E-1」が発売。
当初は一眼レフ用独自規格として登場しましたが、のちにパナソニックも合流して改良され、2008年にマイクロフォーサーズとなります。
フランジバックが短く、ミラーレス化へのトビラを開いたこのシステムは、オリンパス得意の小型化技術が生きる設計でした。
そんなマイクロフォーサイズ採用ミラーレスの一号機が、2009年の「OLYMPUS PEN E-P1」でした。
ハーフカメラのPENの名と、フォーサーズの代名詞「E」が同居するあたり、同社の気合いが感じられます。
カメラファンの間では、「PEN Fのデジタル版」という認識でしたが、メーカー側としてはあくまでもレンジファインダのPENのような、手軽で低価格というイメージだったようです。
のちにちゃんとPen Fのデジタル板である「OLYMPUS PEN-F」をリリースするのですが、このあたりから次第に、消費者側とメーカー側の意識のズレが顕在化していったような気がします。
2012年には、一眼ではなくミラーレスの本格システムカメラ、「OM-D E-M5」を投入します。
あのOMシリーズのデジタル版ということで、往年のオリンパスファンには大歓喜で迎えられました。
翌年発売の「OM-D E-M1」は、これからはフォーサーズではなくマイクロフォーサーズがフラッグシップであると宣言したモデルで、新しい時代の幕開けを感じさせました。
ただ気になったのは、往年の名機の名前に頼りすぎなのではないか、という懸念でした。
レンズでは技術の継承はありますが、カメラボディは技術背景が違いすぎて全くの別物です。
オールドファンは喜ぶでしょうが、コンセプトを継承、というのも無理があるのでは…という気がしたものです。
オリンパスのカメラが立ちゆかなくなった理由に、有望だったコンパクト市場がスマートフォンに食われた、というものがあります。
しかしそれはすでに10年前からいわれている話で、今に始まったことではありません。
筆者の見立てでは、動画への対応をおろそかにしすぎたせいだろうと思います。
4K、HDR、H.265とどんどん進む動画トレンドに対して、オリンパスはうまく波に乗れていない印象でした。
「あくまでもカメラは写真がメイン、動画はオマケ」というのは、2008年にキヤノンEOS 5D Mark IIが動画カメラとして大ヒットして以来、時代遅れの考え方となってしまったのです。
動画カメラとして買ってくれるわけではありませんが、動画でもカメラに見合うクオリティがなければ買えない時代になったことに、ちょっと気づくのが遅かったように思います。
オリンパスのポジションとは、常に時代の風雲児であり続けたことではないでしょうか。
それがコンパクトデジカメが立ちゆかなくなってからというもの、次第に頑なな企業になってしまいました。
素晴らしい技術も人材も沢山あったのに、最後には天才設計者と言われた米谷 美久氏の知産に寄りかかりすぎて倒れてしまった感があるのは、実に残念です。
とはいえ、オリンパスが見せてくれた革命の数々は、きっとのちの技術者に大きな影響を与えたはず。
オリンパスの魂は死なず、と思いたいです。
思い起こせば学生時代の部活動で、中学校の頃「写真部」を選択したのが、私自身の最初のカメラ活動でした。
当時私が通っていた学校は、「運動部」と「文化部」の両方を必ず選択しなければならず、授業時間内で「文化部」活動が出来て、放課後に「運動部」:私の選択は「テニス部」で、私達の世代の少し前から「軟式テニス部」が新設されてから、其の後県大会に常時進出する程有力校だったのですが、部活動で日が暮れるまで没頭していました。
「文化部」・「運動部」ともに担任が非常に熱心で、世の中的にも所謂「武田鉄也」さん演じる「金八先生」が、まだ「幻影」じゃ亡かった頃の、今思うと非常に暑苦しかった時代の話なんですが・・・・・。
そんな中で最初に無理を言って両親に買って貰ったのが、「オリンパス」のカメラでした。
記事中3番目の写真「Olympus pen」に似た、シリーズ真ん中位の機種だったと思いますが。

此処だけの話、何方かと云うと、ソフトバンクCMに出演してた初代「ドラえもん」役の「ジャン・レノ」さんよりは、今CMで流れてる二代目「ドラえもん」役の「ブルース・ウィルス」さんに似ています、あくまでも無謀な自称ですが、人生が無駄に「ダイ・ハード」な処も含めてですが。
ジャン・レノブルース・ウィリス私は「ドラえもん」かよ?と思いながら思い出の品を自室押し入れで探したら、当時使っていた懐かしいカメラが出てきましたよ。

冷静に見れば当時流行っていた「バカチョン」カメラの安い方の分類でしたが、中学生だった私には「宝物」でした。
いくら嗜好品・趣味の品とは言え、先日大量閉店した自作パソコンパーツショップの「ツクモデンキ」さん(現在は「ヤマダ電機」傘下)と同様に、日本を代表する電子工業製品が、段々と日常の生活や街並みから消えてゆくのは、現在の日本に起きてる事象の「象徴」みたいで辛いですが、時代を彩る思い出の一つとして掲載しました。
PCショップの雄「ツクモ」が大量閉店!―― 一体なぜ?

芭蕉俳句: 篠の露袴に掛けし茂り哉 (ささのつゆ はかまにかけし しげりかな)
時代背景&解説: 元禄6年夏。
ここに岡田氏某とは大垣門人の千川のこと。
元禄6年4月9日、大垣藩主戸田氏定が日光代参の役割を命ぜられた。
千川はこれに扈従したのである。
氏定は、同年4月24日に将軍綱吉に代参の報告をしているので、この句はその頃に歌仙の発句として詠んだもので、千川の脇句「牡丹の花を拝む広場」がある。
千川は将軍の代参として主君にしたがって日光にお参りしてきた。
その袴にはきっと日光街道の生い茂った笹の露が着いていることであろう。
千川へのねぎらいが込められている。







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