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「World Post Day .: 世界郵便の日(10月9日 記念日) 。」  

歴史
10 /09 2021
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今日は何の日 10月9日

世界郵便の日(10月9日 記念日)
郵便に関する国際機関である万国郵便連合(Universal Postal Union:UPU)が1969年(昭和44)に「UPUの日」として制定。

その後、1984年(昭和59年)に「世界郵便の日」と名称を変更した。
国際デーの一つ。
「世界郵便デー」または「万国郵便連合記念日」ともされる。
英語表記は「World Post Day」。

World Post Day

1874年(明治7年)のこの日、全世界を一つの郵便地域にすることを目的に、万国郵便条約によって万国郵便連合(UPU)が発足した。
本部はスイスの首都ベルンに置かれている。
加盟国間の郵便業務を調整し、国際郵便制度を司る。
最も古い国連の専門機関の一つである。

UPUの設立によって、次の3点が合意形成された。
①地球上のほぼすべての域から固定料金に近い形で郵便物が送れること。
②国際郵便・国内郵便(内国郵便)がともに同様の扱いがなされること。
③国際郵便料金は、それぞれの国で徴収し、使用すること。

特に切手を貼った郵便物については、どの国家の切手でも国際的に通用することを万国郵便連合憲章(UPU憲章)で決めている。また、UPUでは国際返信切手券の発行事務などを行っている。

日本は1877年(明治10年)6月1日にアジア諸国として初めて加盟した。
国連の設立後、1948年(昭和23年)にUPUは国連の専門機関の一つとなり、2013年(平成25年)9月時点で、192ヵ国が加盟している。

この日を中心とした10月6日~12日の一週間を「国際文通週間」(International Letter Writing Week)としている。
記念の郵便切手が発行されたり、日本郵便友の会がイベントを実施している。

郵便局

( ノ゚Д゚)おはようございます、ブログ冒頭は今日も今日とて「記念日」から、どうしてまぁ「郵便局」や「銀行」など、建物が新社屋で随分と立派になると、途端に勤務者の態度で人当たりが特に冷たくなるのか・・・・・。
そんなに人件費が無駄なら、窓口から全部いっその事「オールコンピューター化」して貰った方が。
「AI」や「コンピューター化」も本来なら「役所」や「金融機関」から導入すれば良い筈だろうに、日本に限っては「デジタル化以前」な状況が放置されまくり、自称「先進国」の限界かメッキ剥がれか、「民主主義」どころか「公共性」さえ疑わしい国なろうとは?!

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今日の気になる話題は此方です。

【戦国こぼれ話】織田信長の葬儀は羽柴秀吉が勝手に行ったのではなく、衝撃的な真の理由があった
渡邊大門 株式会社歴史と文化の研究所代表取締役 10/7(木) 6:03

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織田信長の葬儀に、信雄・信孝の2人の子は参列しなかった。(提供:studiolaut/イメージマート)

 10月2日に織田信長の遺徳を偲んで、岐阜市の寺で追悼法要が営まれた。
ところで、織田信長の葬儀に子が参列しなかったことは、あまり知られていない。
以下、葬儀の経過を記すことしよう。

■羽柴秀吉と織田信孝が主導した葬儀
 天正10年(1582)6月に織田信長が本能寺の変で横死した。
その後、羽柴(豊臣)秀吉が信長の葬儀を主催したのは、自らが天下人になるためだったと言われているが、それは正しいのだろうか。

 同年7月3日付の織田信孝書状(本能寺宛)によると、本能寺の屋敷を信長の墓所とすべく、僧に還住を求めていた(「本能寺文書」)。
信長の次男の信雄でなく、三男の信孝が信長の墓所選定を進めていたのだ。

 同年7月6日、増田長盛は本能寺の寺家に対し、僧に還住を求めたことを秀吉に伝えたことなどを知らせた。
続けて、長盛は本能寺の寺家に書状を送り、信長の屋敷跡に陣取を禁止する旨を伝えた。

 さらに同年7月8日、秀吉は本能寺に寄宿を免許した(以上、「本能寺文書」)。
以上のとおり、信孝と秀吉が中心となり、信長の墓所は決まっていたようである。

■親族らによる百日忌
 同年7月20日には、本能寺の焼け跡に仮屋を設け、細川藤孝が百韻の追善連歌を主宰して興行した(『細川家記』)。
その日は、信長の四十九日だった。

 同年9月11日には、勝家の妻・お市と信長の乳母が信長の百日忌を行った(『月航和尚語録』)。
翌9月12日には、信長の四男で秀吉の養子・秀勝が大徳寺で百日忌を催した(『法用文集』)。
信長の親族や関係者は信長の百日忌を行い、供養をしていたのである。

 同日、阿弥陀寺(京都市上京区)の清玉も、信長・信忠父子の百日忌の法会を行った(『言経卿記』)。
阿弥陀寺は近江国坂本(滋賀県大津市)に所在したが、清玉が信長の帰依を受け、上京今出川大宮に移転した。

 それゆえ清玉は恩を感じて、信長・信忠父子の百日忌の法会を行ったのだろう。
一説によると、清玉は変後の本能寺へ行き、骨や灰を集めて阿弥陀寺に葬ったという(『雍州府志』)。

 この間、信雄と信孝が法会を行った形跡はない。
なお、信長の葬儀が正式に行われたのは、同年10月15日のことである。

■信長の葬儀の挙行
 同年10月9日、丹羽長秀の名代として、3名が上洛した。
うち1人は、家臣の青山助兵衛尉だった(『兼見卿記』)。

 同年10月14日、信雄と信孝が上洛して葬儀を中止させるとの噂が流れたが、それは実現しなかった(『晴豊公記』)。

 『蓮成院記録』によると、滝川一益、丹羽長秀、柴田勝家、信孝の名代・池田恒興は上洛したが、抑留されたという。
つまり、葬儀には参加できなかったのだ。

 こうして信長の葬儀は、同年10月15日に執り行われた。
棺には信長の木像が入れられた。
信長の遺骸が発見されなかったからだろう。

 棺の前を歩いたのは、池田輝政である。
恒興が出席できなかった代理であるとともに、『晴豊公記』には恒興の母が信長の乳母だったからだと書かれている。

 棺のあとを歩いたのは、次(信勝。信長の四男)だった。
実質的な喪主である。
秀吉は、信長の愛刀「不動国行」を持って参列した。

 結局、主だった人で参列したのは、丹羽長秀の名代が3人、そして細川藤孝くらいだった(『兼見卿記』)。

■ついに来なかった信雄と信孝
 秀吉は信雄や信孝に葬儀の連絡をしたが返事が来なかったこと、また重臣らも葬儀を行う素振りすらなく、このままでは世間体が悪いので自ら計画したという。
しかし、実際の準備は、9月から始まっていた。

 なぜ、信雄・信孝という2人の信長の子が葬儀に参列しなかったのか。
信長の死後、信雄が尾張、信孝が美濃を領有することになっていたが、その国境をどう画定するかによって、双方の関係はこじれていたのである。
ゆえに、2人は葬儀に参列しなかった。

 秀吉が信長の葬儀を主催したのは、自らが天下人になるためだったと言われているが、それは違う。
理由は、織田家の2人の兄弟の内輪揉めにあったのである。

渡邊大門
渡邊大門
株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
1967年神奈川県生まれ。
関西学院大学文学部史学科卒業。
佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。
博士(文学)。
現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。
十六世紀史研究学会代表。千葉県市川市在住。
日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演活動に従事する。
主要著書に
『関ヶ原合戦全史 1582-1615』(草思社)、
『戦国大名の戦さ事情』(柏書房)、
『ここまでわかった! 本当の信長 知れば知るほどおもしろい50の謎』(光文社・知恵の森文庫)、
『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』 (朝日新書)
『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)など多数。



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「Rainbow Day.: 虹の日(7月16日 記念日)。」

歴史
07 /16 2021
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今日は何の日 7月16日

虹の日(7月16日 記念日)
デザイナーの山内康弘氏が制定。

日付は「なな(7)い(1)ろ(6)」(七色)と読む語呂合わせと、梅雨明けのこの時期に空に大きな虹が出ることが多いことから。

「人と人、人と自然、世代と世代が七色の虹のように結びつく日」としている。
また「先輩世代が後輩世代をサポートする日」との意味合いもある。
記念日は一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。
この日を中心として、音楽ライブなどのイベントが実施される。

虹について
虹(にじ)とは、大気中に浮遊する水滴の中を光が通過する際に、分散することで特徴的な模様が見られる大気光学現象である。

円弧状の光の帯であり、「七色の虹」と表現されるように様々な色の光の束が並んでいるように見える。
国によっても異なるが、日本では一般に、赤・橙・黄・緑・青・藍・紫の七色とされる。

雨上がり、水しぶきをあげる滝、太陽を背にしてホースで水まきをした時などに見ることができる。
英語では「rainbow(レインボー)」であり、これは「雨(rain)」と「弓(bow)」の単語からできた言葉であり、「雨で作られた弓」を意味する。

駅前

( ノ゚Д゚)おはようございます、最近は歴史モノのYouTube視聴に嵌っています。



割と斬新に感じるのは、よくある専門家による史実語りじゃなく、「大河ドラマ」と言ったら言い過ぎだろうか、多少簡略化されていても「合戦」等を「時系列的に進行」してるところか、あえて具体的に言えば「PCゲーム 武田信玄」風と云うか。
武田信玄 (パソコン用ゲーム)
多少の漫画チックさは否めないけど、其の武将の特徴を端々にちりばめていて、史実の再検証とかには割と力作と言うか秀逸ですよ。

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今日の気になる話題は此方です。

愛知大学が7月16日に第5回アシタシアサロン「中世・戦国時代の国境地域と越境性 -- 尾張・美濃・伊勢 -- 」を開催
Digital PR Platform 愛知大学 2021年07月14日 20:05  公共・政治 イベント



愛知大学三遠南信地域連携研究センター(愛知県豊橋市)は7月16日(金)に第5回アシタシアサロンを開催する。
今回は、「中世・戦国時代の国境地域と越境性―尾張・美濃・伊勢―」と題して同大文学部の山田邦明教授が講演。
中世・戦国時代から地域の将来像を読み解く。
なお、今回は講演の様子がオンラインで生配信され、名古屋キャンパス(名古屋市中村区)での会場参加のほか、オンラインでの参加も可能。
いずれも参加無料で、要事前申し込み。

 愛知大学は2020年、文部科学省私立大学研究ブランディング事業の一環として「越境地域マネジメント事業 ASITASIA''アシタシア''(明日のくに)」を発足。
同年10月から「アシタシアサロン」を開催している。
 第5回となる今回は、「中世・戦国時代の国境地域と越境性―尾張・美濃・伊勢―」をテーマに開催。
同大文学部歴史地理学科の山田邦明教授が、歴史と共に形成される地域境界の歴史からみえる越境性と地域の将来像を読み解く。
概要は下記の通り。

◆愛知大学三遠南信地域連携研究センター 第5回アシタシアサロン 概要
【テーマ】 中世・戦国時代の国境地域と越境性―尾張・美濃・伊勢―
【日 時】 7月16日(金)18:00~20:00
【講 師】 愛知大学 文学部歴史地理学科 教授 山田邦明
【プログラム】
●18:00~18:05 アシタシアサロン趣旨説明
 愛知大学 三遠南信地域連携研究センター長 戸田 敏行
●18:05~19:45 講演
 愛知大学 文学部歴史地理学科 教授 山田 邦明
 <演題> 中世・戦国時代の国境地域と越境性 ―尾張・美濃・伊勢―
●19:45~20:00 質疑応答
【参加費】 無料
【会 場】
(1)愛知大学名古屋キャンパスグローバルコンベンションホール
(2)WEB参加
【定 員】
(1)会場参加:150名(登録先着) ※残席わずかです。
(2)WEB参加:制限なし
※会場の名古屋キャンパスグローバルホールは、新型コロナウイルス感染対策として同ホール所定定員(600名)の4分の1(150名)を定員として設定しています。
【申 込】
(1)会場参加:下記URLから申し込み。
 https://www.aichi-u.ac.jp/guide/asitasia/onsite
 ・申込締切:7月15日(木) 
(2)WEB参加:下記URLから申し込み。
 https://www.aichi-u.ac.jp/guide/asitasia/online
 ・申込締切:7月16日(金)
※会場参加を希望される方も、事前にインターネットによるお申込みをお願いいたします。
事前のお申込みがない場合、入場をお断りすることがあります。
※参加登録後に自動返信されるメールに記載の注意事項をよくお読みいただきますようお願いいたします。
※愛知大学の入構制限により会場参加が不可になる場合があります。
アシタシア公式サイトで最新情報をご確認の上ご来場ください。

*詳細は下記URLを参照。
 https://asitasia.aichi-u.ac.jp/topics/salon5

(参考)
■「『越境地域マネジメント研究』を通じて縮減する社会に持続性を生み出す大学」
 文部科学省の2018(平成30)年度「私立大学研究ブランディング事業」に採択されている取り組み。
愛知・静岡・長野の県境地域を対象とした「越境地域マネジメント研究」を愛知大学に拠点化し、その実用によって縮減する社会に持続性を生み出すとともに、全国県境地域への波及効果を目指す。
・参考: http://www.aichi-u.ac.jp/profile/fund/branding 

◇愛知大学公式サイト
 https://www.aichi-u.ac.jp/

◇愛知大学三遠南信地域連携研究センター
 http://edu.aichi-u.ac.jp/san-en/

◇越境地域マネジメント事業ASITASIA''アシタシア''
 https://asitasia.aichi-u.ac.jp/

(関連記事)
・愛知大学が5月25日に第4回アシタシアサロン「エンターテインメントと大学の越境対話 コロナ禍における名古屋のライブ・エンターテインメントをささしまで考える!」をオンライン開催(2021.05.13)
 https://www.u-presscenter.jp/article/post-45857.html


▼本件に関する問い合わせ先
企画部 広報課
住所:名古屋市東区筒井二丁目10-31
TEL:052-937-6762
FAX:052-937-4816
メール:koho@aichi-u.ac.jp


【リリース発信元】 大学プレスセンター https://www.u-presscenter.jp/



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「Will Day.: 遺言の日。」

歴史
01 /05 2021
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今日は何の日 1月5日

遺言の日(1月5日 記念日)
さまざまな社会問題の解決に取り組む公益財団法人・日本財団が制定。

日付は「い(1)ご(5)ん」(遺言)と読む語呂合わせと、この時期は正月で家族が集まる機会も多く、遺言について話し合えることから。
相続のトラブルを少なくできる遺言書の作成の普及が目的。
記念日は2016年(平成28年)に一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。

民法上の法制度における遺言は、死後の法律関係を定めるための最終意思の表示をいい、法律上の効力を生じせしめるためには、民法に定める方式に従わなければならないとされている(民法960条)。
日常用語としては「ゆいごん」と読まれることが多く、法律用語としては「いごん」と読まれることが多い。

「遺言」で思い出すのは、「紀州のドンファン事件」なのは、私だけなんだろうか?!
あれから何年経過しただろうか、謎が謎を呼ぶ事件の典型で、「餃子の王将:社長暗殺事件」と共に、一刻も早い事件の解決を期待します。
怪死「紀州のドンファン」に田辺市から4000万円振り込み?の謎

和田

( ノ゚Д゚)おはようございます、「今日は何の日」絡みになりますが、日本の警察は「世界トップレベル」と云われて久しいですが、現実には年を追う毎に、未解決事件が増えてるようにも見えますね。
「コロナウィルス」対策としての「不要不急の外出」で犯罪が減り、事件・事故の少ない社会になりますように。
アリババ創業のジャック・マー氏が行方不明?「中国の金融規制は老人クラブ」批判が原因か。欧州メディア報道
年末年始辺りからインターネット上で囁かれていた火種になりそうな話題、人権上で国際的な大問題になりませんように、早期解決を希望します。
周庭氏、重罪犯収容の刑務所に移送か 警備厳重に 香港紙報道

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今日の気になる話題は此方です。

明智光秀は本能寺に行かなかった?家臣が実行、古文書に
朝日新聞 編集委員・宮代栄一  2021年1月3日 20時47分

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 戦国武将の織田信長(1534~82)が、配下の明智光秀(1528?~82)に討たれた本能寺の変(1582年)をめぐり、光秀は本能寺(京都市中京区)の現場には行かず、部下に実行させていたとする学説が出てきた。
本能寺の変に参加した家臣から聞いた情報として、事件から87年後にまとめられた古文書に記録されていた。
これまで映画やドラマなどでは光秀本人が寺を襲ったように描かれてきたが、それを裏付ける史料はなく、研究者の間でも議論されてきた。

【もっと詳しく】「光秀ハ鳥羽ニ」、最期の言葉も 本能寺の変に新情報
「光秀ハ鳥羽ニ」、最期の言葉も 本能寺の変に新情報
 古文書は江戸時代前期に、加賀藩(現在の石川県と富山県の一部)の兵学者、関屋政春(せきやまさはる)が書いた「乙夜之書物(いつやのかきもの)」(金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵、3巻本)。
史料の存在は一部で知られていたが、主に加賀藩に関わる部分が注目されてきた。
このほど、富山市郷土博物館の萩原大輔主査学芸員(日本中世史)が読み解いて明らかにした。

 萩原さんによれば、本能寺の変の記述は1669年に成立した上巻にある。
寺を急襲した光秀軍を率いたとされる重臣の斎藤利三(としみつ)の三男で、自らも数え16歳で事件に関わった利宗(としむね)が、おいで加賀藩士の井上清左衛門に語った内容として収録されていた。
利三と、光秀重臣の明智秀満(ひでみつ)が率いた先発隊2千余騎が本能寺を襲い、光秀は寺から約8キロ南の鳥羽(京都市南部)に控えていたと書かれている。

 奥書(書き入れ)には、関屋が息子のために書き残し、他人に見せることは厳禁とある。
萩原さんは「関屋の自筆本で後世の加筆もないとみられ、事件に参加し、重要情報に触れ得る立場の人物が情報源であることから、信頼性が高い記述ではないか」とみる。

 光秀本人が本能寺を襲ったと考えられてきたのは、光秀と交流があった公家の吉田兼見(かねみ)の日記(1570~92年)などに「惟任日向守(光秀のこと)、信長之屋敷本応寺へ取懸」などと記されていたためとみられるが、うわさを書き残した可能性も指摘される。

 光秀が本能寺に行かなかったことについて、本郷和人・東京大史料編纂(へんさん)所教授(日本中世史)は
「十分あり得ることではないか。
光秀自身が最前線に赴く必要はないし、重臣を向かわせたのも理にかなう」と話す。(編集委員・宮代栄一)

「NHK大河ドラマ:麒麟がくる」もいよいよ佳境に、長年の日本史史上最大の謎「本能寺の変」ですが、諸説多過ぎて・・・・。



超絶話題沸騰の「コロナウィルス」や「アメリカ大統領選挙」以外にも、実は歴史モノにも親和性が高い「Youtube」。
いろんな角度から、わざわざ自ら講演に出向かなくても、気になった題材、今回は「本能寺の変」を好きな時間に、自室で「百花繚乱の各説」を視聴できるのでとても重宝しています。

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芭蕉俳句: 甲比丹もつくばはせけり君が春 (かぴたんも つくばはせけり きみがはる)

時代背景&解説: 延宝6年、芭蕉35歳の時の作。
この年12句が現存する。
 「甲比丹」はカピタン(Kapitein)で長崎出島のオランダ商館長のこと。
この頃は、毎年三月朔日に将軍拝謁して献上物を届ける儀式が行われていたのである。
「つくばわす」は「はいつくばる」/「ひれすこと」を表す動詞。
 この年もオランダ商館長の一行が江戸にやって来て将軍にひれ伏した。
まことにめでたい新春であるというのである。
現代人から見れば、国際感覚に乏しい能天気な句である。


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「World Day for Audiovisual Heritage .:世界聴覚遺産の日。」 

歴史
10 /27 2020
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今日は何の日 10月27日

世界視聴覚遺産デー(10月27日 記念日)

国際連合教育科学文化機関(United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization:UNESCO、ユネスコ)が2006年(平成18年)に制定。

国際デーの一つ。
「世界視聴覚遺産の日」ともされる。
英語表記は「World Day for Audiovisual Heritage」。

1980年(昭和55年)のこの日、旧ユーゴスラビアのベオグラードで行なわれた第21回ユネスコ総会において、「動的映像の保護及び保存に関するユネスコ勧告」が採択された。
映画・映像など視聴覚資料の重要性を多くの人に知ってもらうことが目的。

毎年テーマを掲げて、この日には世界各国でショートフィルムの上映会や視聴覚資料の展示会などのイベントが開催される。
日本では映画保存協会(Film Preservation Society:FPS)などが実施している。

2009年(平成21年)、ユネスコは記念日のロゴを募集し、映画フィルムと再生ボタンをあしらったフィリピンのデザイナーAchilleus Coronel氏の作品が選ばれた。

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( ノ゚Д゚)おはようございます、日中暖かっただけに昨夜は寒いぐらいで、一気に冬らしささえ感じましたよ。

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今日の気になる話題は此方です。

【科学が立証】豊臣秀吉「本能寺の変を事前に知っていた」説は正しかった
科学の成果が、歴史を裏付けた…!

web 現代ビジネス 2020.10.25 # 不正・事件・犯罪# 生命科学# ブルーバックス  藤田 達生歴史学者

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行軍する兵士たちの消費エネルギーから排泄物の量まで計算して「中国大返し」の難易度を検証した『日本史サイエンス』が、日本史ファンの間で話題を呼んでいる。
「科学的」に導かれたのは、「中国大返しを実現させた豊臣秀吉は、本能寺の変が起こると事前に知っていた」という意外な結論だった。
はたして、秀吉は明智光秀の裏切りを察知していたのだろうか?
 「本能寺の変」研究のトップランナーである三重大学の藤田達生教授が、この結論を徹底検証した。
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実際の行程を推定してみる
本能寺の変のあと、秀吉が光秀を倒して信長の後継者として認知され、天下の趨勢を決したのが「中国大返し」だった。
それは、秀吉が中国地方の毛利氏攻略のため布陣していた備中高松城(岡山県岡山市)から、光秀との決戦の場となった山崎(京都府大山崎町)までの常識を超えた高速の行軍だったとされている。
26月5日~13日、高松から山崎まで8日間で走破した「中国大返し」の行程図(筆者の推定)
『日本史サイエンス』第2章「秀吉の大返しはなぜ成功したか」において著者の播田安弘氏はこの行軍を、読者が理解しやすいよう、約30kmをコンスタントに8日間歩いたという想定のもとで難易度を科学的に考察している。

ただし実際の中国大返しは表に示したように、備中高松から秀吉の本城だった姫路城(兵庫県姫路市)までの前半と、姫路城から山崎までの後半では、異なる性格をもっていたと考えられる。
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中国大返しでの日ごとの移動距離と宿営地
前半は、毛利軍の追尾を警戒して2~3日間で92kmを走破するという猛烈に速い進軍だったのに対し、後半は、明智光秀側の動きもにらみながら慎重に行軍している。
たとえば、光秀と親しい土佐の長宗我部元親の摂津上陸を阻むため、別動隊が淡路を攻撃したのは効果的だった。

筆者は、実際の1日あたりの平均行軍距離は、前半3日間は約30km、後半5日間は約20kmだったと判断する。
また、前半の姫路城に帰るまでに必要な物資は、ふだんから用意されていたと考える。
そして姫路城において、6月9日からの後半の行軍に必要な物資が、総がかりで準備されたとみるべきであろう。

兵士の食料を手配するのは不可能
さて播田氏は、大返しに従軍した兵士の1日あたりの消費エネルギーを割り出すことで、注目すべき指摘をしてみせた。

兵士の体重を、旧帝国陸軍の兵士の平均体重52kgと仮定し、1日の行軍時間を8時間、携行品は鎧・鉄砲・刀・長槍など約30kgの重量があったとして、運動強度を数値化したメッツ値をもとに計算し、この行軍では、兵士の1日あたりの消費エネルギーは約3700kcalに達していたと見積もったのである。
これは、東日本大震災で救助活動にあたった警察官や自衛隊員の1日あたりの消費エネルギーに匹敵するという。

6.5(メッツ値)×8(時間)×52(kg)×1.05(係数)
    +1.0×16(時間)×52(kg)×1.05(係数)=3712.8(kcal)
※1日あたりの消費エネルギーは以下の式で求められる
 メッツ値×運動時間×体重×1.05+1.0×安静時間×体重×1.05

これだけのエネルギーをまかなうには、兵士1人あたりで1日に、おにぎりにして約20個が必要となるという。
全軍2万人ではじつに約40万個となり、重量にすれば約40tにもなるというのである。
4明智光秀(本徳寺蔵)
ただし、2万人というのは山崎の戦いにおける秀吉側の軍勢であり、秀吉の御咄衆(おはなししゅう)であった大村由己が著した『惟任退治記』によれば、この軍勢には総大将の織田信孝をはじめとする大坂城からの合流軍が含まれていたので、実態としては大返しの総兵数は1万人程度と推測するべきである。

そこを修正して計算すると、必要なのは毎日約20万個のおにぎりとなり、重量にすれば約20tとなる。
これは播田氏の想定の半分である。

しかし結論としては、それでも播田氏による検証と同じで、これだけの食料を緊急に、必要な地点に手配することは、ほとんど不可能と言ってよいだろう。

自衛隊の猛訓練に等しい疲労感
播田氏の計算を援用すると、それに加えて飲料水は毎日約2万Lが必要で、四斗樽にすると277個となる。
さらに味噌や塩、梅干しなどの副食品も必要不可欠である。
進軍には、武将用の騎馬900頭、輸送用の駄馬1050頭が必要であり、すると飼葉や水なども必要で、さらに、それらを運送する駄馬も確保せねばならない。

しかも、当時の山陽道は未整備で険しい山道が多く、とくに最大の難所とされる船坂峠(岡山県と兵庫県の県境)は高低差が大きく、道も狭くて滑りやすく、梅雨時でもあることから行軍にはかなりの困難をともなったとみられる。

播田氏は、現在の自衛隊の空挺団には、30kgの装備を携行して山岳地帯の100kmを2泊3日で踏破するという行軍訓練があることを紹介し、中国大返しに従った兵士たちの消耗度は、現代の選りすぐりの自衛隊員に課せられるのと同様の訓練を、8日間にわたって強行した場合にひとしいと指摘する。
そして、はたして山崎の戦いで兵士たちはまともに戦えたのか、「大きな疑問」であるとしている。

これに関しては、宣教師ルイス・フロイスがその著書『日本史』にこのように記しているのが参考になる。

この軍勢(秀吉軍)は幾多の旅と道のり、それに強制的に急がせられたので疲労困憊していて、(予想通りには)到着しなかった。

山崎の戦いでは、秀吉軍の兵士は、播田氏の疑問通りだった可能性が高い。
5豊臣秀吉(高台寺蔵)
疲れ切った兵士でもよかった
ならば、なぜ結果的に秀吉は勝利を収めたのであろうか。

秀吉は、みずからの体験によって、情報と宣伝が戦いの勝敗を決定することを学んでいた。
極端にいうならば秀吉は、戦場では使いものにならなくても、可能なかぎり早く兵を返せばよいと判断していたのではあるまいか。

実際に、「秀吉、無事帰還す!」との情報が、分散し、情勢を日和見していた旧織田家臣団を味方につけ、ひとつにまとめることに直結した。
とくに、戦場となった山崎に近い地元勢力である摂津高槻城主の高山右近や、摂津茨木城主の中川清秀の参戦は、形勢を決定的なものにした。

秀吉は自身の最大の課題を、「奇跡の中国大返し」に成功したと喧伝することに絞っていたと考えられる。
実際の戦闘は、高山氏や中川氏ら、地元摂津の大名衆に委ねればよかったのである。
現に、山崎の戦いで最前線に布陣したのは秀吉軍本隊ではなく、中川清秀、高山右近、木村重茲、池田恒興、加藤光泰ら、いずれも摂津および畿内の諸将であった。
6山崎の戦いの布陣図。
最前線の中川清秀、高山右近、木村重茲、池田恒興、加藤光泰は大返しをみて秀吉に従った畿内周辺の諸将
播田氏は、中国大返しに関する考察の結果として、次のように述べる。

中国大返しにともなうリスクを小さくするためには、あらかじめこのような行軍が必要になることを想定し、それを実行するために時間をかけて、さまざまな準備をしておくしかないことがわかります。
言い換えるならば、そうした準備が整い、リスクより成功の期待値のほうが十分に大きくなったと判断したからこそ、秀吉は中国大返しに踏み切ったのでしょう。

大返しのリスクを軽減するには、事前にその必要性を想定し、さまざまな準備をしておくしかなかったというのである。
では、秀吉にはなぜそれが可能だったのだろうか。

あらかじめ見抜いていた「光秀の謀反」
拙論(『本能寺の変』講談社学術文庫)によると、織田家臣団のなかで生き残りを懸けて光秀との派閥抗争の渦中にあった秀吉が、本能寺の変を事前に想定していた可能性は十分にある。
実際に、光秀の謀反の真因に関連して、変からわずか4ヵ月後の天正10年10月に著された『惟任退治記』(前出:大村由己筆)には、次のような一節がみえる。現代語訳して掲げよう。

光秀は、将軍足利義昭を推戴し、2万余騎の軍勢を編成して、備中に向かわずに、密かにクーデターを企てた。
これはまったく発作的な恨みからではなく、年来の逆心からであることを、(人々は)知り察していた

大村らの秀吉側の人間にとっては、光秀が信長に対して「年来の逆心」を抱いていることは、常識に近かったと思われるのだ。

とりわけ、信長が四国外交の方針を変更し、それまで光秀が良好な関係を築いてきた長宗我部元親の討伐を決めたことは、光秀の体面を大きく傷つけ、恨みにつながったと容易に推測できる。
大村が書いている「将軍足利義昭の推戴」も、一見唐突だが、意外に違和感がなかったことなのかもしれない。

情報の重要性を熟知していた秀吉が、こうした状況のなかで、光秀や毛利氏の周辺などにアンテナを張り、光秀の叛意をあらかじめ察知していた可能性は高い。

敵方・毛利を震えさせた秀吉の言葉
そのことを強く示唆する史料として、毛利氏家臣の玉木吉保が記した「身自鏡」(みのかがみ)の一節を紹介しよう。
本書は元和3(1617)年に成立したもので、毛利元就・輝元・秀就の三代に仕えた吉保の自叙伝として広く知られている。

本能寺の変の報を6月3日夜に知った秀吉は、翌4日に毛利氏と講和を結んだ。
吉保は、このときの秀吉と毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊(えけい)との講和交渉のシーンを、次のように活写している(現代語訳は筆者)。
7秀吉(右)との講和交渉に臨んだ安国寺恵瓊(月岡芳年『教導立志基三十三:羽柴秀吉』)
羽柴秀吉が安国寺恵瓊を密かに(石井山の陣所に)呼んで、中国(毛利氏の領国)を平定するための私の謀(はかりごと)を見せようと仰り、(毛利氏家臣で)味方になった武将たちの連判状(名前と花押を据えた文書)を(恵瓊に)投げ出された。
そこから洩れている(毛利家の主な)武将は、五名にすぎなかった。
恵瓊は肝を潰し、膝を震わせた。
秀吉は、このような計略はかつて日本にはなかったと思っていたところ、毛利輝元殿の御謀(おはかりごと)が深かったため、信長がお果てになってしまったと仰り、したがって今は毛利・吉川・小早川の御三家と和睦して上方に戻り、明智光秀を討ち果たして信長の恩に報いたいので御同心いただきたいと、起請文(神に対する宣誓文)を作成のうえで仰った。

秀吉は毛利氏との大決戦の前に、毛利方の多数の重臣をあらかじめ寝返らせるという「かつて日本にはなかった」空前の計略を実現していたことを明かし、恵瓊の膝を震わせるほどのショックを与えた、と吉保は記しているのである。

しかし筆者には、なぜ毛利氏が秀吉との講和にただちに応じたのかが、長い間、腑に落ちなかった。

この時点では、秀吉は北近江三郡と播磨・但馬・因幡を支配していたにすぎない。
それに対し、毛利氏は10ヵ国に影響力をもつ大大名であった。
彼我の軍事力の差は歴然であり、毛利氏は講和を引き延ばせば引き延ばすほど有利だったはずだ。
にもかかわらず、なぜ秀吉の思惑のまま即座に講和に応じたのだろうか。

その答えは、引用した「身自鏡」の、太字にした箇所にあった。

毛利輝元殿の御謀が深かったため、信長がお果てになってしまった
8
毛利輝元(毛利輝元博物館蔵)
この部分の意味を、筆者は理解しかねていた。
しかし、信長に京を追放されて備後の鞆(とも)の浦(広島県福山市)に亡命していた将軍義昭を介して、天正10年2月、安芸の毛利氏が土佐の長宗我部元親に軍事同盟(芸土同盟)を持ちかける動きがあり、それが同年5月までに義昭と明智光秀の交信をもたらし、ついに本能寺の変が発生したことが判明したことで(前出拙著『本能寺の変』)、はじめて解釈が可能になった。

すなわち、6月4日に秀吉が恵瓊に語った「毛利輝元殿の御謀」とは、土佐経由での義昭と光秀の連携であり、それによって光秀がクーデターを起こしたことを、この日までに秀吉が知っていたと解釈することができる。
秀吉は独自の情報網を駆使して、本能寺の変の裏面まで正確に理解していたことになるのである。

毛利氏の中枢にいた恵瓊は、こうした本能寺の変の裏の人間関係を知っていた可能性がある。
だからこそ秀吉のおそるべき情報収集能力を見せつけられ、肝を潰したのだ。
毛利氏が即座に講和に応じたのは、恵瓊が毛利氏の生き残りを秀吉の将来に賭けたからではないか。

現地に行けばわかる「通説のありえなさ」
もしもこのような理解が成り立つなら、播田氏の指摘のように、秀吉はあらかじめ謀反を想定し、そのときに備えてリスク軽減に努めていたと考えることができる。

ここで1ページ目に掲げた表に記した、秀吉軍の宿営地に注目したい。
万を超える軍勢が野営(いわゆる野宿)を続けるのは体力が著しく消耗するため、長距離行軍では寝場所の問題は深刻なのだが、これだけ手回しよく沿道の城下町や寺内町を確保できたことは、偶然とみなせるものだろうか。

常識的には不可能な中国大返しが見事に成功した要因の根本には、秀吉の神業のような情報収集能力があった。
もはや、光秀が毛利氏に派遣した密使が誤って秀吉方の陣所に入ったため、秀吉が毛利氏に先んじて信長横死の情報を得た、といった通俗的なイメージは、当然のことながら再検討されなくてはならない。
9織田信長(長興寺蔵)
そもそも、このような重要な用件を託された使者が、敵陣に迷い込むなどというミスを犯すだろうか。
この疑問は、実際に備中高松の故地に立ってみれば氷解する。
秀吉陣所があった石井山は、直線距離にして、吉川元春の陣所があった岩崎山とは2km、小早川隆景の陣所があった日差山とは4kmも離れていて、しかも、向かう道筋も異なっている。
そのような事態が起きる可能性はきわめて低いのである(拙著『秀吉神話をくつがえす』(講談社現代新書)。
読者にも実際に現地を訪ねてみることをお勧めする。

戦場のインテリジェンス
かりに秀吉が光秀の使者から情報を得たのだとしても、それをただちにインテリジェンス(精査した情報)として信用するはずがない。
敵方がもたらした情報や風聞は参考にはなりえても、それによって政策決定することなど、ありえないのである。
もしも情報が誤報や謀略であるにもかかわらず、勝手に毛利氏と講和し、全軍を挙げて上方をめざしたならば、秀吉のほうが謀反人として信長に処断されてしまうだろう。

秀吉が6月3日に変の情報を得るや、迷うことなく毛利氏に講和を持ちかけたのは、自前のルートで、クーデターに関するインテリジェンスを誰よりも早く入手していたからにほかならない。
そして、そのためには、変が確実に勃発すると予想し、周到に準備していなくてはならないのである。
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中国大返しから山崎の戦いまでの主な動き

以上のように、サイエンスの視点からの播田氏の指摘をもとに考えを進めると、「中国大返し」の成功の理由は、秀吉の圧倒的な情報収集力と危機管理能力、そして、時にみずからに都合のよい虚偽まで交えながら(上の表の6月5日)、日和見の諸将を味方につけた情報発信力にあったことが明らかになる。

今後の歴史研究が積極的に採り入れるべき重要な視点を呈示していただいたことを、播田氏に深く感謝したい。

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昨日に続き、またもや長文記事で申し訳ありません、10分で読めるブログは訂正しないといけないですネェ。
まぁ秋の夜長、歴史的な謎、本能寺の変、から毛利討伐での豊臣秀吉公の中国大返し、からの明智光秀公との山崎の戦い、までの歴史的精査された状況検証だけでも、読んで幾程に唸る様な,圧倒感で力づくで説得させられた様な・・・・・・。
面白い記事は得てして、こういう傾向にあると言う事で、連日の長文ニュース記事の引用に御勘弁を。

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芭蕉俳句: 初秋や畳みながらの蚊屋の夜着 (はつあきや たたみながらの かやのよぎ)

時代背景&解説: 元禄4年秋。
朝晩涼しくなって蚊帳は使われずたたんだままになっている。
初秋の夜寒にかけるものとて無いのでそこに畳んであった蚊帳を夜具として かけ布団の代わりに身にかける。


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