ジュビロ磐田PB顛末記
日記
こんばんは、昨日、大学時代の知り合いが揖斐川マラソンに初参加し、初フルマラソン出場で4時間30分台で初完走と云う快挙を成し遂げ、いよいよ自分が参加する予定のジュビロ磐田メモリアルマラソン大会まで、後2週間を切りました。

それでは、先日のジュビロ磐田PB顛末記のご報告をしましょうか?!

この日も普段の日曜日と同じらしく遠鉄百貨店の駐車場は満車状態でした。

先日は第一駐車場に駐車しましたが、此処まで来るのに待つ事・・・、やや疲れ気味でした。

遠鉄百貨店3階からのソラモ撮影、午後二時なのにテーブルは埋まりつつある状態でした。

ちなみにソラモとは遠鉄百貨店の新館と旧館の間にある空間を云います。

こちらがエレベーターからの駅前の風景です。

此方は、土曜日に開店した、H&M浜松店です、店内は凄まじい人だかりでした。

実は現在使用中のトートバッグが破れたので、満期になった友の会にて新規のバッグを購入する為にも、この日は遠鉄百貨店に寄りました。

此方が新型のバッグ、一応、両方ともポーター製、今時、十年以上使用できるモノはなかなか手放せないですね。

更にお買い物の後には、抽選会にも、参加賞を頂きました。

そして、駐車時間一杯まで待ちましたが、試合開始時間までにはギリギリ間に合わずに、試合結果はFaceBookで確認しようと、僅かな奇跡を期待しつつ、後ろ髪を引かれる思いで帰宅しました。

そして、此方が今日の話題です。
磐田】名門が20季目で初降格 生え抜き一掃からクラブ崩壊
スポーツ報知 11月11日(月)7時5分配信
◆J1第31節 鳥栖1―0磐田(10日・ベストアメニティスタジアム) J1優勝3回を誇る磐田が鳥栖に0―1で敗れ、94年のJ1参入から20季目でクラブ史上初のJ2降格が決定した。
最後まで名門の誇りも意地も見せられなかった。クラブ史上初の屈辱にまみれた瞬間、選手たちは膝から崩れ落ち、涙を浮かべ、残留確定の歓喜に沸く鳥栖イレブンとのコントラストに埋もれた。
閉鎖的な体質、世代交代の失敗…降格の要因には様々な要素が絡み合うが、最大の元凶は2011年オフだ。クラブの生え抜きだった柳下監督(現新潟)、石井HC、尾畑強化部長らを解任。FW中山雅史、DF鈴木秀人らを放出した09年オフと合わせ、チームの前身であるヤマハ発動機の色を一気に排除した。
“血の入れ替え”には賛否両論があるが、後任人事が悪夢を招いた。森下監督と服部GM、30代ながら初の大役を任された2人は当初から強気な姿勢を打ち出したが、相手に研究されると、未熟さが顕著に表れ、12年終盤には8戦未勝利。前田、駒野、伊野波と代表クラスをそろえた今季は3―5―2の新布陣で挑んだが、機能せず。選手たちは「何を変えても全く新鮮味がなかった」と戦意を喪失。森下監督解任(第9節)まで2点以上奪ったのはわずか2試合。中断期間直前、関塚隆監督(53)が後を継いだが、「選手たちの失った自信を取り戻すのは容易ではなかった」と最後まで修正することはできなかった。
生え抜きを粗雑に扱ったことで、「いずれは磐田に戻りたい」と公言する中山や名波らレジェンドすら現体制に同調することはなくなり、距離を置いた。
試合後、高比良慶朗社長(60)は強化費を削減せず、赤字覚悟で1年での昇格を目指すことを明言。FW前田も「力不足。責任を感じている。残り試合も来年も結果を出したい」と話したが、フロント、首脳陣、OB、選手がちぐはぐとなったクラブの未来は見えない。3度のリーグ優勝を誇る古豪が全てを失い、奈落の底に落ちた。
◆ジュビロ磐田 1972年、ヤマハ発動機サッカー部として創部。79年に日本サッカーリーグ1部昇格。93年にJリーグ準会員となり、現名称に。94年にJ昇格。ステージV6回、年間V3回。ナビスコ杯優勝1回。天皇杯優勝1回。主なOBは中山雅史、名波浩、高原直泰(現J2東京V)。「ジュビロ」はポルトガル語で「歓喜」の意味。チームカラーはサックスブルー。
ガーン、こんなことになろうとは・・・・、実際、J2未経験クラブは、鹿島アントラーズ、横浜マリノス、清水エスパルス、名古屋グランパスの4チームだけに為りましたね。

