摩天楼のNagoYa.
日記
小雨模様の夜、名古屋市駅前にて、新ビジネス街に雲抜けての摩天楼、クリスマスイルミネーションの夜景です。

覚王山での研修を終えて、時間調整にて名古屋駅前の北口、列車が到着するまで観賞していた見事な夜景です。

こんばんは、昨夜は途中JR東海道線にて列車トラブルがあり、乗り換えてようやく名古屋市研修から帰宅、下の写真は「JR高島屋のクリスマス飾り」、今日も日付けを越えての(T0T)ブログ更新です。




今日の気に為る話題は「東日本震災復興」から此方です。
<あなたに伝えたい>2人の無念背負って生きる
河北新報 11月8日(日)16時58分配信
<あなたに伝えたい>2人の無念背負って生きる
鉄也さんと美海ちゃんの記憶を刻む写真を眺めながら、2人を思う浩史さん
◎佐々木浩史さん(仙台市)から鉄也さん、美海ちゃんへ
浩史さん 震災から5日ほどして仙台から石巻の実家にやっとたどり着いたら、弟の車がありません。美海と一緒に津波にのまれたようだと分かり、遺体安置所に毎週通って2人を捜しました。
弟はその年の夏に発見されました。小学校に入学直前だった美海はいまも見つかっていません。
6歳違いの弟とは年が離れていたせいか、子どものころは兄弟間の接点はどちらかといえば薄かったかもしれません。俺のことは嫌いだったんじゃないかな。「うるせー、ガキ」とかいつも言っていたから。
大人になってからは、逆にとても仲良くなりました。2人とも仙台で働いていた時期もあり、よく酒を飲み、いろいろと面倒を見ました。めんこかった。付き合いの深さから、妻から「なんかいい年して気持ち悪いね、あんたたち」とか言われるほどでした。
弟は両親と同居していましたが、離婚していたため、ほとんど男手一つで美海を育てていました。美海は「何でわたしにお母さんいないの?」と一度も言わなかったそうです。幼い彼女なりに父親に気を使っていたんだと思います。
弟は「せめて寂しい思いはさせたくない」と全てを美海のために優先し、遠足や運動会には欠かさず出ていたはず。めちゃくちゃかわいがっていました。
生きていてもらいたかった。自分はこの無念な現実を背負っていきます。「俺と美海の分まで生きてほしい」と弟から託されているような気がします。
(日曜日掲載)
◎仲の良い弟 男手一つで娘を育てていた
佐々木鉄也さん=当時(43)=、美海(みみ)ちゃん=同(6)= 仙台市で飲食関係の会社を営む佐々木浩史さん(54)の弟鉄也さんは、実家の石巻市宜山町の自宅で娘の美海ちゃんと両親の4人で暮らしていた。震災時に運送関係の仕事中だった鉄也さんは、車で美海ちゃんが通う保育所に迎えに行き、その後2人とも津波にのまれたとみられる。
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最終更新:11月8日(日)16時58分河北新報
小さな秋見付けた。



列車の写真もタイミングが難しいです。


