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第2392回「ついに来た…花粉症の時期!」

日記
02 /27 2018
かんばん

今日は何の日 2月27日

新選組の日
1862(文久2)年、庄内藩の郷士・清河八郎の提案で、事件が頻発している京都の警護に当る為に幕府が江戸で集めた浪士組が「新選組」の前身となった。
浪士組は清河八郎と共に翌1863年の2月8日に江戸を出発2月23日に京都に到着した。
しかし京都に着いた途端、清河が壬生浪士組の目的は尊皇攘夷だと言い出したため、浪士組は空中分解した。
まもなく幕府の帰還命令を受けて清河ら209名は江戸に戻ったが、近藤勇・芹沢鴨・土方歳三ら24名はそのまま京都に残留し、「壬生浪士組」となり、京都守護職であった会津藩主の松平容保の配下に入って、8月に「新選組」と改称した。
その後、約4年間にわたり、京都で尊皇攘夷派・倒幕派の弾圧を行った。
新撰組の日は、壬生浪士組を会津藩預りとするとする建白書の提出された、2月27日(1863)の他に、会津藩預りが正式決定した3月13日などがある。

気温

こんにちは!FC2ブログトラックバックテーマ担当の刈谷です今日のテーマは「ついに来た…花粉症の時期」です花粉症の方はつらい季節にこんにちは花粉症になったことがない方は、今年初めてなるかもしれませんこの季節になると、「あ~花粉症つらいわぁ~」と言い合って、花粉症持ち同志の仲間意識がやたら強くなり、それが案外嫌いではありません暖かくなってきたからオシャレして出かけようと思っても、+マスクでやや残念な感...

おはようございます(´・Д・)」、「花粉症」自体は余り影響を受けないのですが、3月~5月には「鼻づまり」は起き易くて、対策として「花粉症用のマスク」をしてようが、していなくても、兎に角「鼻づまり」に為り易いので困ります。

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それでも、此処数年で、「花粉症」や「風邪」・「インフルエンザ」の影響なのか、常時「マスク」をしている人の比率は、普段の街中でも相当高くなっていると思います。

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今日の気に為る話題は此方です。

<回顧3.11焦点>津波から船守る「沖出し」 戻った船と波に飲まれた船、明暗を分けたのは…
避難した高台から、津波が来た沖合の方角を望む漁師=宮城県山元町の磯崎山公園


 東日本大震災の直後から、被災地で暮らす市民の課題を取り上げた河北新報連載「焦点」。
震災7年の節目に、発生翌年までの主な記事をまとめました。
=肩書や年齢は掲載当時のものです。=

<是か非か/津波から船守る「沖出し」>
 「地震が来たら沖に出ろ」。船を守るため、各地の漁師たちの間で言い継がれてきた先人の教えだ。
東日本大震災では、沖に出て津波を乗り切った船がある一方、波にのまれた船もあった。
津波から逃れるため漁船を沖に避難させる「沖出し」は、そもそも危険な行為と言われる。
明暗を分けたのは何だったのか。
沖出しは是か非か。(勅使河原奨治)

<無事/浜の立地・水深幸い>
 沖に出た18隻の全てが無事、港に戻った。
宮城県南三陸町歌津の石浜地区。
「沖出し」の成功は、浜の立地や水深、津波の高さなど好条件の重なりが背景にあった。
 石浜の漁師佐藤登志夫さん(63)は、小型船で岸壁近くの測量を手伝っているとき、地震の揺れを感じた。
「岸壁の突端で、潮がざわめくように緩やかな渦を巻いていた」。
即座に港に戻って、測量業者を降ろした。
中型船に乗り換え、沖を目指した。
 佐藤さんの出港後、潮が徐々に引き始めた。
加藤良明さん(59)は地震から約20分後に港を出た。
港の水深が浅くなったため、船外機を斜めに上げ、かじを取った。
18隻目が出発したのは地震の約30分後だった。
 加藤さんは「波があと10分早く来ていたら、半分ぐらいがのまれていただろう」と振り返る。
 18隻は港から約500メートル沖合、水深約30メートルの地点で最初の津波を乗り切った。
「第1波が小さかったのも幸いした」と佐藤さんは言う。
 沖合に大きな第2波が見えた。
船団は沖合約1キロ、水深50~70メートルの海域にさらに避難した。
「船は波にふわりと乗るように上下に動くだけだった」(佐藤さん)。
振り向くと、第2波が港を襲っていた。
 船団は押し寄せたがれきと連発された津波警報で、港に戻れず、海上で3夜を過ごし、3月14日の朝に港に戻った。
 石浜地区は歌津半島の先端部分に位置する。
湾の奥行きは約350メートル。
湾を出るとすぐ外洋に面する。
リアス式海岸のため、岸から水深の深い場所までの距離も短い。
 漁師の佐藤孝悦さん(61)は「好条件が重なって船を守れた。
無事だった船で早く漁を再開し、地域を元気にしたい」と語る。

<被災/遠浅の海、引き潮急>
 「俺は行く」。
そう言って海に向かった男が、再び浜に戻ることはなかった。
宮城県山元町の磯浜漁港。経験のない激しい揺れに漁師たちが沖に船を出すか、陸に逃げるかで迷う中、ただ一人、沖に出た。
 磯浜の複数の漁師によると地震当時、浜では10人ほどの漁師が漁具の整理などをしていた。
 男性は地震の約10分後に港を出た。
間もなく、港に変化が表れた。「波が『ぴちゃぴちゃ』と小刻みに揺れ、潮が引いていった」(地元漁師)
 磯浜の漁師星義雄さん(83)は家族を避難させるため、いったん自宅に帰り、港に戻った。
 「船を出そうとしたが、もう出せないくらい潮が引いていた。
無理に出港していたら、自分も駄目だっただろう」
 星さんら数人の漁師は、近くの高さ約20メートルの磯崎山公園に登った。
海を望むと、数百メートルにわたって海の底が見えたという。
 「1キロ以上沖合で、引き潮で水深が異常に浅くなり、動けなくなっている船が見えた。
男性の船だったのかもしれない」と星さんは言う。
 磯浜の海は遠浅だ。
津波の影響を受けにくい目安とされる水深50メートルの所まで、浜から約32キロはある。
一般的な漁船の速度は10~20ノット。
20ノット(時速約37キロ)出る漁船でさえ1時間近くかかる計算だ。
 地震の約1時間後、磯浜を津波が襲い、波は磯崎山公園にいた漁師たちの膝元にまで達した。
 数週間後、一人沖に向かった男性は相馬沖の海底で見つかった。
真っ二つに割れた船の片方にロープで体を縛り付けていたという。
 磯浜の漁師たちは「最後まで船と一緒だった。
船が遺体の場所を教えてくれたのだろう」と悼んだ。=2011年5月14日河北新報

関連ページ: 宮城 社会 アーカイブ大震災

2018年02月26日月曜日

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