「Will Day.: 遺言の日。」
歴史


今日は何の日 1月5日
遺言の日(1月5日 記念日)
さまざまな社会問題の解決に取り組む公益財団法人・日本財団が制定。
日付は「い(1)ご(5)ん」(遺言)と読む語呂合わせと、この時期は正月で家族が集まる機会も多く、遺言について話し合えることから。
相続のトラブルを少なくできる遺言書の作成の普及が目的。
記念日は2016年(平成28年)に一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。
民法上の法制度における遺言は、死後の法律関係を定めるための最終意思の表示をいい、法律上の効力を生じせしめるためには、民法に定める方式に従わなければならないとされている(民法960条)。
日常用語としては「ゆいごん」と読まれることが多く、法律用語としては「いごん」と読まれることが多い。
「遺言」で思い出すのは、「紀州のドンファン事件」なのは、私だけなんだろうか?!
あれから何年経過しただろうか、謎が謎を呼ぶ事件の典型で、「餃子の王将:社長暗殺事件」と共に、一刻も早い事件の解決を期待します。
怪死「紀州のドンファン」に田辺市から4000万円振り込み?の謎

( ノ゚Д゚)おはようございます、「今日は何の日」絡みになりますが、日本の警察は「世界トップレベル」と云われて久しいですが、現実には年を追う毎に、未解決事件が増えてるようにも見えますね。
「コロナウィルス」対策としての「不要不急の外出」で犯罪が減り、事件・事故の少ない社会になりますように。
アリババ創業のジャック・マー氏が行方不明?「中国の金融規制は老人クラブ」批判が原因か。欧州メディア報道
年末年始辺りからインターネット上で囁かれていた火種になりそうな話題、人権上で国際的な大問題になりませんように、早期解決を希望します。
周庭氏、重罪犯収容の刑務所に移送か 警備厳重に 香港紙報道







今日の気になる話題は此方です。
明智光秀は本能寺に行かなかった?家臣が実行、古文書に
朝日新聞 編集委員・宮代栄一 2021年1月3日 20時47分

戦国武将の織田信長(1534~82)が、配下の明智光秀(1528?~82)に討たれた本能寺の変(1582年)をめぐり、光秀は本能寺(京都市中京区)の現場には行かず、部下に実行させていたとする学説が出てきた。
本能寺の変に参加した家臣から聞いた情報として、事件から87年後にまとめられた古文書に記録されていた。
これまで映画やドラマなどでは光秀本人が寺を襲ったように描かれてきたが、それを裏付ける史料はなく、研究者の間でも議論されてきた。
【もっと詳しく】「光秀ハ鳥羽ニ」、最期の言葉も 本能寺の変に新情報
「光秀ハ鳥羽ニ」、最期の言葉も 本能寺の変に新情報
古文書は江戸時代前期に、加賀藩(現在の石川県と富山県の一部)の兵学者、関屋政春(せきやまさはる)が書いた「乙夜之書物(いつやのかきもの)」(金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵、3巻本)。
史料の存在は一部で知られていたが、主に加賀藩に関わる部分が注目されてきた。
このほど、富山市郷土博物館の萩原大輔主査学芸員(日本中世史)が読み解いて明らかにした。
萩原さんによれば、本能寺の変の記述は1669年に成立した上巻にある。
寺を急襲した光秀軍を率いたとされる重臣の斎藤利三(としみつ)の三男で、自らも数え16歳で事件に関わった利宗(としむね)が、おいで加賀藩士の井上清左衛門に語った内容として収録されていた。
利三と、光秀重臣の明智秀満(ひでみつ)が率いた先発隊2千余騎が本能寺を襲い、光秀は寺から約8キロ南の鳥羽(京都市南部)に控えていたと書かれている。
奥書(書き入れ)には、関屋が息子のために書き残し、他人に見せることは厳禁とある。
萩原さんは「関屋の自筆本で後世の加筆もないとみられ、事件に参加し、重要情報に触れ得る立場の人物が情報源であることから、信頼性が高い記述ではないか」とみる。
光秀本人が本能寺を襲ったと考えられてきたのは、光秀と交流があった公家の吉田兼見(かねみ)の日記(1570~92年)などに「惟任日向守(光秀のこと)、信長之屋敷本応寺へ取懸」などと記されていたためとみられるが、うわさを書き残した可能性も指摘される。
光秀が本能寺に行かなかったことについて、本郷和人・東京大史料編纂(へんさん)所教授(日本中世史)は
「十分あり得ることではないか。
光秀自身が最前線に赴く必要はないし、重臣を向かわせたのも理にかなう」と話す。(編集委員・宮代栄一)
「NHK大河ドラマ:麒麟がくる」もいよいよ佳境に、長年の日本史史上最大の謎「本能寺の変」ですが、諸説多過ぎて・・・・。
超絶話題沸騰の「コロナウィルス」や「アメリカ大統領選挙」以外にも、実は歴史モノにも親和性が高い「Youtube」。
いろんな角度から、わざわざ自ら講演に出向かなくても、気になった題材、今回は「本能寺の変」を好きな時間に、自室で「百花繚乱の各説」を視聴できるのでとても重宝しています。



芭蕉俳句: 甲比丹もつくばはせけり君が春 (かぴたんも つくばはせけり きみがはる)
時代背景&解説: 延宝6年、芭蕉35歳の時の作。
この年12句が現存する。
「甲比丹」はカピタン(Kapitein)で長崎出島のオランダ商館長のこと。
この頃は、毎年三月朔日に将軍拝謁して献上物を届ける儀式が行われていたのである。
「つくばわす」は「はいつくばる」/「ひれすこと」を表す動詞。
この年もオランダ商館長の一行が江戸にやって来て将軍にひれ伏した。
まことにめでたい新春であるというのである。
現代人から見れば、国際感覚に乏しい能天気な句である。







在庫速報.com


にほんブログ村
スポンサーリンク
ここに広告のコードを入れる
コメント